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キングダム「政」は名君なのに史実では暴君?始皇帝の焚書坑儒と本当の人物像を考察

キングダムの政と、焚書坑儒の穴埋め伝説を考察する記事のアイキャッチ

『キングダム』で、信とともに中華統一を目指す秦王・政。

仲間を信じ、戦乱の世を終わらせようとする姿は、まさに名君と呼びたくなるものです。

しかし、史実の始皇帝には「焚書坑儒で人々を穴埋めにした暴君」というイメージもあります。同じ人物なのに、なぜここまで評価が違うのでしょうか?

結論、漫画の政と歴史で語られる始皇帝は、同じ人物の異なる面に光を当てた姿と考えられます。暴君の逸話にも、残された史料や伝承の背景を考える必要があるのです。

本記事では、映画『キングダム』の中国史監修を務める鶴間和幸さんの解説を手がかりに、始皇帝が暴君と呼ばれる理由と、政の人物像を考察していきます。※史実に関する記述には、中華統一後の展開も含みます。

目次

キングダム「政」は史実では暴君?始皇帝にまつわる怖い逸話

まずは、始皇帝の悪評につながっている逸話を整理してみましょう。

特によく知られているのが、書物を焼き、人々を処罰したとされる「焚書坑儒」です。そのほかにも、大規模な工事や不老不死を求める行動などが語られています。

逸話・出来事伝えられている内容
焚書坑儒書物の焼却と、460人余りを「坑」に処したという記述
趙での復讐幼少期に母の家と因縁のあった人々を、邯鄲で処罰したという逸話
大規模な工事長城の修築や阿房宮、陵墓の造営に多くの人々を動員したこと
不老不死への執着徐福らを派遣し、不老不死の薬を求めたという話
死後の後継者争い趙高や李斯らが遺詔を偽造し、胡亥を後継者にしたという話

これだけを見ると、『キングダム』の政とは別人のように感じますよね。

ただし、最後の後継者争いは始皇帝の死後の出来事です。始皇帝本人の行動と、その死後に秦で起きた事件は、分けて考える必要があります。

また、史料に書かれている逸話のすべてが、当時の出来事をそのまま伝えているとは限りません。ここが、始皇帝の人物像を考えるうえで大切なポイントです。

始皇帝の焚書坑儒は本当?「穴埋め」の伝説が生まれた背景

始皇帝の残酷さを象徴する焚書坑儒ですが、何が起きたのかを考えるには、書物の焼却と人々への処罰を分けて見ていく必要があります。

①『史記』は始皇帝と同時代の記録ではない

始皇帝を知るうえで欠かせないのが、司馬遷の『史記』です。

しかし、『史記』がまとめられたのは、始皇帝の死からおよそ100年後。司馬遷自身が、始皇帝の政治を直接見ていたわけではありません。

鶴間さんは、伝説を読むときには、その話が生まれた背景を考えることが大切だと説明しています。

秦に征服された地域には、秦への反発や、滅ぼされた国への思いが残っていました。そうした記憶が、始皇帝にまつわる怖い話へとつながった可能性があるのです。

統一した側にとっては偉業でも、国を失った側にとっては悲劇だった。この違いを考えると、始皇帝の評価が一つにまとまらない理由も見えてきます。

②「460人を生き埋めにした」と言い切れるのか

『史記』には、460人余りが咸陽で「坑」に処されたという記述があります。

ただ、「坑」という言葉を、全員が生きたまま穴に埋められたことだと即断するのは慎重であるべきでしょう。処刑の具体的な方法や、対象となった人々の範囲には議論があります。

鶴間さんの解説では、この事件を直接裏付ける遺骨は確認されていないとされています。

もっとも、遺骨が見つかっていないことは、事件がなかったという証明にはなりません。発掘で分かることと、伝承に書かれていることを照らし合わせて考える必要があります。

長平の戦いに関連づけられる人骨の出土と比較する場合も、遺骨があることと、伝えられる犠牲者数や殺害方法がすべて正しいことは別問題です。

③批判を封じられた人々の怒りが残った可能性

穴埋めの方法がはっきりしないからといって、秦が自由な政治を行っていたと考えることもできません。

『史記』では、李斯が政治批判につながる書物や議論を取り締まるよう提案したことが記されています。

古い国や昔の王の政治を持ち出して、今の政治を批判する。そうした言論を、統一後の秦が警戒していたことがうかがえます。

鶴間さんは、批判を封じられた側の怒りが、始皇帝を悪く語る伝説の背景になったと見ています。

つまり、残酷な伝説の細部を見直すことと、思想や言論への統制を軽く扱うことは、同じではないのです。

④温泉地帯から生まれた「冬のウリ」の話

穴埋め伝説には、冬なのに穴の中でウリが育ち、集まった人々が埋められたという話もあります。

鶴間さんは、現地が温泉地帯であることに注目し、地熱で植物が育つ土地の特徴が伝説に結びついた可能性を挙げています。

ただし、これは秦の時代そのものの記録ではなく、後世に伝えられた話として扱う必要があります。

怖い話にも、土地の特徴や、語り継いだ人々の事情が隠れているのかもしれませんね。

史料の発見で変わる始皇帝像!『史記』だけでは分からない人物像

始皇帝の評価を見直すきっかけになったのが、考古学の発見です。

①兵馬俑や秦の竹簡が見つかった

1974年には兵馬俑が発見され、翌1975年には睡虎地の秦墓から、法律や行政などに関わる竹簡が出土しました。

竹簡とは、細長い竹の札に文字を書いたものです。紙が広く使われる前の記録を、今に伝えてくれます。

こうした発見によって、後世の『史記』だけでなく、秦の時代に残された文書とも比較できるようになりました。

鶴間さんは、木を伐らせたとされる暴君の逸話と、土地や樹木の保護を読み取れる出土文書を対照して紹介しています。

ただし、一つの法令があるから始皇帝は優しい王だった、と決めることもできません。政治の仕組みと、個人の行動の両方を見ることが大切でしょう。

②胡亥は遺言の偽造で皇帝になったとは限らない?

始皇帝の死後を語る有名な話に、後継者をめぐる陰謀があります。

『史記』では、趙高や李斯らの工作によって胡亥が後継者となり、長男の扶蘇は偽の命令で自害したと伝えられています。

ところが、北京大学が所蔵する西漢時代の竹簡『趙正書』には、始皇帝が臣下の提案を受け入れ、胡亥を後継者に決めたという別の筋書きがあるのです。

もしこちらの記述を重視するなら、胡亥の即位をめぐる見方も変わりますよね。

鶴間さんは、この異なる記録から、『史記』の陰謀説を見直す可能性を示しています。

ただし、『趙正書』も始皇帝本人が残した遺言ではなく、漢の時代の文献です。見つかった史料だから自動的に正しいというわけではありません。

北京大学の研究紹介でも、『史記』との違いが指摘されています。少なくとも、秦の後継者問題には、後世まで残った一つの話とは異なる歴史の語られ方があったことが分かります。

③始皇帝の時代は、戦争の記録も変わっている

鶴間さんは、秦の戦争記事に出てくる「敵の首の数」にも注目しています。

始皇帝の曽祖父の時代には、数万単位の首を取ったという記録が多く見られますが、政の即位後には、桓騎の10万という記事などを除いて、そうした記述が目立たなくなると説明しています。

この指摘は、秦の戦争のあり方を考える材料になります。

ただし、記録に出てくる数が減ったことだけで、犠牲者そのものが減ったとは断定できません。政の時代を評価するときにも、記録の特徴と実際の出来事を区別したいところです。

キングダムの「政」は美化されている?史実に近い部分と創作を解説

ここまで見てくると、『キングダム』の政が、まったく根拠のない理想の王というわけではないことが分かります。

一方で、漫画は歴史の記録ではありません。史実を土台にしながら、人物の感情や関係を物語として描いています。

①若くして即位し、臣下とともに統一を目指した

政が13歳で秦王になったという点は、一般に数え年で示される史実を踏まえた設定です。

もちろん、幼い王が一人ですべてを動かしたわけではありません。重臣や将軍たちの存在が、秦の政治と戦争を支えていました。

鶴間さんは、秦が統一を成し遂げた要因として、政の人間力や、臣下たちとの関係に注目しています。

これは、信や蒙恬、王賁たちとともに前へ進む『キングダム』の政を考えるうえでも、興味深い視点です。

ただし、漫画で描かれる会話や友情の細部まで、史料で確認できるわけではありません。李信など、史料の登場箇所が限られる人物には、作者の想像で補われた部分も多くあります。

②山の民との絆には、昔の秦の逸話が重なる

『キングダム』で印象的なのが、政と楊端和たち山の民との絆です。

鶴間さんは、その背景として、春秋時代の秦の穆公にまつわる逸話を紹介しています。

穆公の馬を食べた人々に対し、穆公は罰する代わりに酒を与えました。その人々が恩義を感じ、後の戦いで危機に陥った穆公を救ったと、『史記』は伝えています。

相手を罰するのではなく、信頼を作り、その信頼が後に王を救う。山の民の救援を思い出すような話ですよね。

ただし、この逸話の人々と、漫画に登場する山の民を、そのまま同じ集団と考えることはできません。時代の違う話が、物語の着想につながっているという見方です。

③六大将軍や山奥の館は物語のための創作

一方で、秦の「六大将軍」という制度は、史料にそのまま登場するものではありません。

政が再び六大将軍を任命する展開も、漫画独自の物語です。

鶴間さんの解説では、山の民と秦の関係を象徴する山奥の館も、原泰久先生が考えた建物として紹介されています。

史料にある出来事をつなぎ、残っていない人物の表情や心情を描く。そうした創作があるからこそ、読者は政や信の選択を身近に感じられるのでしょう。

結局、政は名君か暴君か?「勝者と敗者の記憶」から考察

では、名君として描かれる政と、暴君として語られる始皇帝。どちらが本当なのでしょうか?

鶴間さんは、自身の評価として、暴君の面を2割、名君の面を8割という見方を示しています。小学生からの質問をきっかけに、考えた答えだそうです。

もちろん、これは歴史上の行動を点数化した数字ではなく、人物像を伝えるための鶴間さんの評価です。

臣下をまとめ、大きな目標を実現した力があった一方で、その政治によって苦しんだ人々もいた。二つの面を同時に考える必要があるでしょう。

征服した側の成功と、征服された側の悲しみは、同じ歴史の中にあります。さらに秦が滅び、漢の時代にその歴史が語られる過程で、どの話が残されるかにも影響が生まれました。

だからといって、『史記』のすべてがウソで、漫画の政こそ正しいと決めることもできません。『史記』にも、秦の成果を伝える記述は残されています。

『キングダム』は統一を目指す政の理想や仲間との関係を強く描き、暴君の伝承は支配への反発や苦しみを強く伝える。その違いを知ると、評価が分かれる理由を理解しやすくなります。

中華統一は、最初から決まっていたわけではない

もう一つ忘れたくないのが、秦の統一を「どうせ勝つ戦い」と見ないことです。

秦は敵国の連合軍に脅かされるなど、危機にも直面していました。最後に統一したという結果だけを見て、すべてが順調だったと考えることはできません。

鶴間さんは、歴史を結果から振り返って、最初から必然だったように語ることへ注意を促しています。

政や将軍たちが、危機の中で判断を重ねた。その積み重ねの先に統一があったと考えると、『キングダム』の戦いも、また違って見えてくるのではないでしょうか。

まとめ

本記事では、『キングダム』の政と、史実で語られる始皇帝の評価が違う理由を考察しました。

結論、始皇帝を名君か暴君かの一言で決めることは難しく、史料や伝承が生まれた背景まで見ることが大切です。

焚書坑儒の具体像や後継者問題には議論があり、出土文献によって、従来とは異なる始皇帝像も見えてきています。

一方で、統一の成果があったからといって、戦争や工事、言論統制による苦しみまで消えるわけではありません。

史実を知ると、政の理想も、敵国の人々が秦に抵抗する理由も、より深く考えられます。次に『キングダム』を読み返すときは、王や将軍だけでなく、国を失う側の思いにも注目してみてくださいね。

参考動画・文献

本記事は鶴間和幸さんのインタビュー解説を手がかりに、史実・伝承・漫画の創作を分けて整理したものです。人物評価や伝説の背景については、一つの研究上の見方として紹介しています。

ReHacQ「【高橋弘樹vs秦始皇帝】新解釈キングダム!春秋戦国時代の史記はウソ!?秦王・嬴政の正体とは?史実での李信とは?【ReHacQvs鶴間和幸】」

鶴間和幸『人間・始皇帝』岩波新書/『始皇帝の戦争と将軍たち―秦の中華統一を支えた近臣集団』朝日新書

司馬遷『史記』秦始皇本紀(中國哲學書電子化計劃)/北京大学『北京大学蔵西漢竹書』刊行紹介

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